「書かれた医学は過去の医学であり、目前に悩む患者の中に明日の医学の教科書の中身がある」とは、沖中重雄教授の東大での最終講義(1963年)における言葉である。この講義の中で同教授は、剖検結果との比較による臨床診断の誤診率が14%であったことも報告されて、当時は大きな話題になった。最近の診断学の進歩によって、この誤診率も、現在は著しく低下したと思われる。たしかに肝炎、気管支炎といった症候的診断、ならびにウイルス・細菌などの生物学的病因の探索は、きわめて的確になされるようになっている。
しかし、私の関係する職業性中毒の診断に必要な化学的病因(有害物質)の探索、さらに、これが職場で作用したことを確認するという社会的病因の探索が不十分なため、職業病が見逃されていることがしばしばである。新しい化学物質による職業性中毒の症例が、欧米からは続々と報告されている。わが国でも、きちんとした化学的・社会的検索を行うならば、新しい職業性中毒の報告ができるはずであるのに、埋もれる症例が多いことはまことに残念なことである。ヒトの症例は、患者の治療、補償、同種疾病の予防に役立つだけでなく、予期せざる人体実験として、動物実験では得られない貴重な情報を含んでいることも忘れてはならない。
職業病の診断に限らず、より広く、産業保健、老人保健、地球環境の温暖化の問題など、これからの社会環境の著変に対応するための医学において、問題の意識、現実的な対策のヒントは、日常の生活・診療の中で、見いだすことができるに違いない。そして、この解決のためには、近年、進歩の著しい分子レベル・遺伝子レベルの研究、細胞、個体、個体群の各レベルの動物実験の研究との連係、すなわち学際的研究が必要であることは、言うまでもない。
高齢社会の今日、生涯研修・生涯学習の重要性が強調されることが多い。医師であるわれわれは、研修・学習のみでなく、生涯研究も継続したいものである。(元教授・公衆衛生学)
| INDEX | BACK | NEXT |