医者ならぬ私は、70余年間一日として医学の勉強をしたことがありません。私の専門は哲学です。その面のことを少し書いてみましょう。
プラトンの『パイドン篇』にこんな挿話があります。〈1と1を足せばなぜ2になるのか。また1を2で割ると―足すと割るとは反対なのに―なぜ2になるのか〉と。1に1を足すと、1は故里(イデア)に帰り、新しく2が出張してくる。1が割られた場合は、割られた1は故里へ帰り、新しく2の故里から2がやってくる。この「割る」とか「足す」とかは、そうした秩序を守る知性の働きを、わかりやすく感覚的に言っただけで、「割る」「足す」で問題になっているのは、あくまでも知性が知性だけで関係する秩序なのです。「足す、割る」はその秩序をわかりやすくするべく、感覚的用語を代用しただけのことです。
さらに一歩進めると、知性のかかわるこの秩序こそ調和すなわち善なのです。だから知性が眠っていては秩序も善もわからない。そういうときの人はただ生きている だけで、より善く生きようする自覚を持つことはできません。
医者の場合でも、その診断や投薬は、つねにより善くなるよう細心の考慮を以て行われているはずです。それでも医者も人の身、思わぬ失策が生じる。失策とは秩序と善への無知です。だから少しでもよい処方をせんとする者は、いささかの無知も見逃してはならない。その無知の自覚から、善への努力が始まるのですから。
従って善への無知を、先程の「足す」「割る」の場合と同じく犯さぬようにする。「善」を知ることの方がはるかに困難だから、「善に対する少しの無知」も自覚する―この謙遜なる無知の自覚こそが、まさしく『研究のエスプリ(知的活動)』なりと―医者ならぬをよいことにして―私は断乎として叫びたいのであります。
(名誉教授・哲学)
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