研究成果概要


 20世紀初頭に神経生理学者のSantiago Ramon y Cajalが「成体哺乳類の中枢神経系は、一度損傷を受けると二度と再生しない」と述べて以来、長年、神経系は再生しないということが信じられてきました。 1990年代になると、神経幹細胞がヒトをはじめとして成体脳でみつかり、神経系を再生させる再生医療が現実性をおび、再生医療研究が盛んになりました。 神経系の再生には脳梗塞、パーキンソン病、脊髄損傷など臨床応用が期待される細胞体を含む神経細胞の再生と主に末梢神経系で見られる軸索の再生があります。 中枢神経系と異なり、末梢神経系は修復・再生能力の高い組織です。

 関西医科大学では、自己骨髄細胞移植におる脊髄損傷の治療の臨床試験を実施するだけでなく、 難病モデルの治療にむけた骨髄内骨髄移植の研究を通じて、トランスレーショナル研究が活発に行われ、神経系においても骨髄細胞やヒト臍帯血を網膜の網膜細胞への分化 (Stem Cells 20, 279-283, 2002)、 遺伝子導入による内耳の有毛細胞の再生 (Nat. Med. 11:271-1276, 2005)、など臨床応用にむけた臨床基礎研究に従事する研究者の育成がなされてきました。 稲田病院の稲田有史博士は、150年前から現在に至るまで治らないとされてきた神経損傷によるカウザルギー患者の激痛を人工神経を用いた神経再生で治すことに世界で初めて成功しました(Neurosurgery 55, 640-646, 2004; Pain 117, 251-258, 2005)。

 このような背景の下、本プロジェクトでは、
 I. 難治性慢性疼痛等のトランスレーショナル研究
(生理学第2、医化学、心療内科学、麻酔科学、大阪医大・麻酔科学、稲田病院)

 II. 神経系の修復・再生機構、変性機構とその予防に関する基礎研究と臨床応用にむけた動物実験
(解剖学第2、医化学、薬理学、神経内科学、脳神経外科学、眼科学、分子遺伝学、幹細胞異常症学)

 III. 組織幹細胞の同定と評価系の確立と治療に向けた動物実験
(解剖学第1、医化学、微生物学、衛生学、整形外科学、耳鼻咽喉科学、救急医学、生体情報)

と事業推進者の個々の領域で事業を推進し、グループ内・間でのトランスレーショナル研究へと発展させ、難治性神経疾患の臨床応用への道を開くことを目指しました。 各グループの研究概要は下記のとおりです。


I. 難治性慢性疼痛等のトランスレーショナル研究

1)慢性疼痛患者の身体、心理、認知的側面についての研究(心療内科学)
①慢性疼痛患者は、慢性的に機能性身体症状を呈する患者群と共通の病態を持つと考えられています。 本患者群においては、心拍、呼吸、末梢血管反応、情動性発汗などの生理学的指標の精神的ストレスに対する反応の低下が示唆されました。 また、線維筋痛症患者においては、生理指標の左右差が健常人に比べて大きいことが見出されました。 さらに、生理的指標のストレスに対する反応性について、高反応群と低反応群の少なくとも2つの群が存在し、高反応群は気分の異常が多く、病悩期間が長いことがわかりました。 このような一連の結果から、生理的指標のストレスに対する反応や左右差が、慢性疼痛発症の一つの予測因子になり得ることが示唆されました。 また、疼痛が慢性化すると、抑うつに伴って視床下部-脳下垂体-副腎軸の機能低下が増悪することが示唆されました。

②慢性疼痛患者の心理的特徴については、平常時はよいがストレス下で対処行動が歪む傾向、過度の感情抑制、感情による認知の歪み、 表現力の不適切さ(コミュニケーションの問題)、などが示唆されました。慢性疼痛の心身医学的評価については、量的研究では捉えきれない情報も多く、 質的研究を併用することが重要です。

2)報酬と嫌悪の神経メカニズム(生理学第2)
① 報酬とそれを得るためのコスト・嫌悪刺激の情報を計算して行動を選択することは、生物の生存のみならず、 経済活動・集団生活における利害関係に至るまで多様な行動様式に決定的な影響を与え、臨床分野たとえば心療内科での痛みの研究などと非常に近接しています。 報酬や嫌悪刺激の情報処理にかかわる脳領域は多く報告されていますが、どの領域が報酬情報の中でも具体的に何をコードしているのか、いまだによくわかっていません。 報酬や嫌悪刺激によって生じる快/不快の感情が、どのような神経メカニズムに支えられているのかを明らかにするため、 カニクイザルに報酬量を変化させた眼球運動課題とパブロフ型の条件付け課題を行いました。

② カニクイザルの同一個体、同一行動課題における異なる脳領域から記録をすることによって、報酬や嫌悪刺激のcodingが背側縫線核、視床下部外側野、 背側線条体でどのような情報処理過程により行われているのかを効果的に明らかにしました。

3)癌性疼痛(麻酔科学)、帯状疱疹後神経痛(大阪医科大学・麻酔科学)患者に対する脊髄腔内ステロイド投与の臨床研究と治療評価のための標的タンパクの探索(医化学)
① 脊椎転移による癌性疼痛患者に対する新しい鎮痛法としてくも膜下ベタメタゾン(ステロイド)投与法の安全性の問題や難治性疼痛への移行の改善を検討しました。 オピオイドの効果が少なく難治性の脊椎転移の痛みに対して、くも膜下ステロイドが優れた長期的鎮痛効果を示しました。また、合併症がみられず、患者のQOLとADLが改善しました。

② 我が国において年間ほぼ50万人が帯状疱疹に罹患し、約5万人が帯状疱疹後神経痛になり、その罹患率は加齢と共に高くなりました。 大阪医科大学ペインクリニック外来を受診する帯状疱疹後神経痛の患者で、合併症を持たない50歳以上の8人患者に毎週4週間髄腔内ステロイド注射による治療を行いました。 帯状疱疹発症後短い経過の患者はステロイドにより改善が認められましたが、長い経過の患者はステロイドに対する改善が少ないことがわかりました。

③ 髄腔内ステロイド注射による治療の際に採取した脳脊髄液中の疼痛マーカーの探索を行いました。治療前と4週間治療後の患者脳脊髄液の2次元電気泳動を行い、 治療前後で発現量が減少した103スポットのうち39スポットを質量分析計で同定しました。同定されたタンパクの1つにβ-トレースがあり、酵素免疫測定法を確立して治療効果を全患者サンプルで評価しました。 脳脊髄液中のβ-トレース量と治療効果との相関はなく、ステロイドのβ-トレースの発現への直接効果と考えられました。現在、治療効果に対応する2次元電気泳動スポットを3つ見出しています。

4)神経再生による難治性疼痛患者の診断・治療のための標的タンパクの探索(稲田病院、医化学)
稲田病院は、神経損傷によるカウザルギー患者の激痛を人工神経を用いた神経再生で治すことに世界で初めて成功しましたが、目に見えない微小損傷でも激痛の要因となるデータが集まりつつあります。 神経因性疼痛の診断・治療のためには、手術適応かどうか、手術部位はどこか客観的評価が必要となります。稲田病院から提供された神経因性疼痛の患者の手術サンプルを抗原として神経因性疼痛に特異的なモノクロナル抗体を作製しました。 その標的分子を精製、同定を行った結果、アルブミンのアイソフォームと判明し、期待していた診断・治療のための標的タンパクではなく残念な結果になりました。

5)慢性疼痛の発症・維持機構の基礎研究(医化学、心療内科学)
① 神経伝達経路に関与するさまざまな遺伝子の遺伝子改変マウスで神経因性疼痛モデルを作製し、機能分子の欠損が疼痛行動と脊髄後角での機能変化に及ぼす影響を体系的に解析しました。

② グルタミン酸NMDA受容体複合体タンパクの解離会合のダイナミクスにより一酸化窒素(NO) 産生と標的分子のリン酸化による機能的かつ可逆的変化が生じ、神経因性疼痛が持続すること、 海馬等の記憶・学習で短期記憶(数時間)に関与するCa2+/カルモジュリンキナーゼIIの活性化が神経因性疼痛の1週間以上の持続に関与し、難治性疼痛の治療の標的になることを明らかにしました。

6)神経系の再構築・機能修復における細胞接着分子・生理活性物質の役割(分子遺伝学、医化学)
① Rap1/RAPL/Mst1は細胞内小胞、細胞膜、核近辺に存在し、インテグリンの細胞内輸送に関与します。Mst1欠損マウスのリンパ組織は低形成になり、細胞接着が低下し、リンパ球ホーミングが低下しました。 肺や脳では特に異常が検出されませんでしたが、Mst1欠損によってMst2の発現には変化はなかったことから、これらの組織では代償的な作用が存在する可能性が示唆されました。

② 1週間にも及ぶ神経因性疼痛の維持には脊髄後角でミクログリアの活性化・遊走によりニューロンーグリア相互作用が加わり、複雑になります。反応の場でのミクログリアの遊走抑制にプロスタグランジン、 NOやATPが順行性、逆行性メッセンジャーとして作用することを明らかにしました。


II. 神経系の修復・再生機構、変性機構とその予防に関する基礎研究と臨床応用にむけた動物実験

1)アルツハイマー病における変性機構とその予防(薬理学、幹細胞異常症学)
① アルツハイマー病は、進行性の記名・記憶障害、見当識障害、精神症状等を臨床的特徴とする神経変性疾患です。 アミロイドβ蛋白断片(Ile-Gle-Leu) がPI4Kを活性化して海馬初代神経培養細胞とアルツハイマー病モデルマウスに対するアミロイドβ蛋白毒性に対する神経保護効果を示しました。

② 抗利尿作用などのホルモン作用を持たないバソプレッシン代謝産物(AVP4-9)が海馬神経培養細胞に対するアミロイドβ蛋白毒性に対する神経保護効果を示しました。

③ アルツハイマー病モデルマウスSAMP8に骨髄内骨髄移植をした3ヶ月後にMorris の水迷路試験でEscape latency が有意に減少しました。また、老化に関連するヘムオキシゲナーゼ-1やサイトカインの発現が骨髄細胞で改善したことを示しました。

2)神経・筋難治性疾患と再生医療(神経内科学)
① 萎縮性側索硬化症(ALS)は、脊髄前角の運動神経細胞が変性脱落し、発症後数年以内に呼吸筋麻痺によって死に至る難病です。 遺伝子改変ALSモデルマウスとヒトALS患者剖検脳で核膜孔複合体の分布異常を明らかにし、ALSがアルツハイマー病と共通の神経変性機序である可能性を示しました。

② フリーラジカルスカベンジャーedaravoneは用量依存的にALSモデルマウスの運動障害の進行抑制効果を示しました。その結果、ヒトALS患者の臨床試験の実施に至りました。

③ 骨髄内骨髄移植によりALSモデルマウスの運動障害の進行が有意に抑制され、生存日数も有意に延長しました。

3)神経疾患モデル動物を用いる機能性分子の探索(解剖学第2、耳鼻咽喉科学)
① 隣接する薄切切片を用いて免疫組織化学とレーザー・マイクロダイセクションを併用した機能性分子の探索法を開発し、効率的な細胞の遺伝子発現プロファイリング分析を可能にしました。

② 前脳コリン神経系はアルツハイマー病を代表とする認知障害において、ごく早期に細胞機能不全の徴候を示すことが知られています。コリン系の合成酵素ChAT mRNAは6種類のnoncoding RNA variantがあり、 その組成が前脳と脳幹ではっきり異なることを明らかにし、さらに聴覚皮質、視床、下丘腕核をコリン神経系中枢聴覚系経路として特定しました。

4)網膜での細胞死・細胞保護の基礎実験(眼科学、医化学)
① 緑内障は網膜神経節細胞の細胞死が深く関与する。緑内障治療薬ニプラジロールが転写因子NF-kBを活性化して細胞死を抑制すること、その効果にニトロシル基が重要であることを明らかにしました。

② 網膜色素変性症の1つ、先天性遺伝子異常による脳回転状網膜脈絡膜のモデル系をヒト網膜色素上皮細胞株で確立し、低アルギニン食の治療をポリアミンと一酸化窒素の病態を関連づけました。

5)治療に向けた脊髄損傷、脳梗塞モデルの動物実験(脳神経外科学)
① 脊髄損傷モデルに対して神経保護物質edaravone、serofendic acidは急性期の機能的および組織学的改善を示しました。

② 一側中大脳動脈閉塞による虚血脳モデルで培養骨髄細胞の局所注入により脳梗塞のvolumeが減少し、梗塞巣の周囲に移植骨髄由来細胞が認められました。

6)GFP蛍光タンパクを用いた神経修復・再生の可視化(医化学、稲田病院)
神経細胞・軸索特異的にYFP蛍光タンパクを発現するThy1-YFPトランスジェニックマウスを用いて、坐骨神経切断後に神経両端をシリコンチューブに縫合し、 チューブ内に浸透圧ポンプを用いて4週間持続的に試薬を投与できるin vivo イメージングによる末梢神経再生モデルを確立しました。 このモデルを用いて、神経再生における神経栄養因子、神経細胞‐Schwann細胞の相互作用、液性因子の重要性を明らかにしました。


III. 組織幹細胞の同定と評価系の確立と治療に向けた動物実験

1)生体における組織幹細胞の同定(医化学、解剖学第1、耳鼻咽喉科学)
① 神経幹細胞のマーカータンパクnestinのプロモーターの下流にGFPを発現させたpNestin-GFPトランスジェニックマウスの脊髄におけるpNestin-GFPの発現は、 生後2日目から急激に減少し、成体では中心管間付近に限局します。神経因性疼痛モデル作製48時間後、GFPの発現と細胞増殖の指標のBrdU取り込みの顕著な上昇が神経損傷側の脊髄後角全体で見られました。 末梢神経損傷時に細胞増殖するnestin陽性細胞が脊髄後角に広く存在することを明らかにしました。

② 神経幹・前駆細胞の局在がよく知られている脳室下帯や海馬歯状回以外に、成獣終脳皮質でNG2/doublecortin陽性細胞が広く散在する幹・前駆細胞であること、 核膜タンパクlaminが神経幹細胞の分化度マーカーとして使用できることを示しました。

③ 終脳皮質の神経細胞の過剰興奮が細胞新生を促すだけでなく、「豊かな環境での飼育」では、ストレスや非ストレスではなく運動量が細胞新生にとって大きな原因であることを示しました。

④ 痛覚伝達路(下丘)に幹細胞がわずかながら存在することをBrdUの取り込みとBcrp1陽性から示しました。分散培養後セルソーターで採取した組織幹細胞にBcrp1、Sca-1、Oct4、 Sox2など幹細胞及び前駆細胞に高発現している遺伝子の発現をRT-PCRで確認しました。

2)血球系幹細胞の同定とシグナル伝達(衛生学、生体情報)
① ヒトの骨髄や臍帯血中に、Oct4、nanogなどを発現する非常に未分化なCD34-HSCを発見同定し、その幹細胞特性を明らかにしました。

② ヒト骨髄由来の間葉系幹細胞から誘導したneurosphere様細胞塊を用いた神経系細胞への分化誘導は必ずしも容易でないことが明らかになりました。

③ 血球系幹細胞からマスト細胞分化誘導にクラスIA・クラスIB PI3K経路が協調的に関わっていることを明らかにしました。

3)修復・再生過程における幹細胞を追跡できるウイルスベクターの開発(微生物学)
① 非分裂細胞への遺伝子導入が可能なルシフェラーゼ発現レンチウイルスベクターや計測にルシフェリン等の基質の注入を必要としない赤色蛍光蛋白tdTomatoの遺伝子の導入が可能なレンチウイルスベクターを作製しました。

② 皮下、腹腔内、眼窩静脈、骨髄内に移植されたルシフェラーゼ遺伝子導入マウスリンパ腫細胞株EL-4細胞は、いずれの経路においても経時的に高感度で観察できました。赤色蛍光タンパク遺伝子導入EL-4細胞でも経時的に高感度で観察できました。

4)遺伝子導入による内耳有毛細胞の再生と機能回復(耳鼻咽喉科学)
① 内耳有毛細胞の再生と機能回復により感音難聴を治療するため、GFPを発現するアデノ随伴ウイルス(AAV)やアデノウイルス(Ad)の内耳への遺伝子導入法を検討しました。AAV-2/2が最も効率よく内有毛細胞へ遺伝子導入されました。

② 内耳障害モデルの左蝸牛の第2回転の内リンパ腔にAtoh1遺伝子を組み込んだアデノウイルスベクター(Ad.Atoh1)投与2ヵ月後に再生した外有毛細胞の切片像は外有毛細胞の特徴である蓋板とstereociliaを有し、有意に聴力の改善を示しました。

5)椎間板再生における骨髄細胞の効果と移植の基礎実験(整形外科学、幹細胞異常症学)
① 変性椎間板に対する治療として、自己細胞移植が行なわれ、椎間板の機能や構造の改善において良好な結果を得ています。灌流式骨髄細胞採取法により採取した新鮮全骨髄細胞を変性椎間板モデルラットの椎間板に移植することにより、 disc height indexやMRIの2強調像で改善が見られました。

② 新鮮全骨髄細胞はin vitroの共培養で椎間板髄核細胞を活性化しました。

6)骨髄間質細胞を用いた急性期脊髄損傷治療(救急医学)
① 脊髄損傷の臨床試験「急性期脊髄損傷に対する培養自家骨髄間質細胞移植による脊髄再生治療の検討」をこれまでに5症例に実施しました。いずれも頸髄損傷患者で運動完全麻痺の重症患者でしたが、3例に著効を認めました。

② 脊髄再生には、幹細胞、成長因子、再生の場が必要です。脊髄離断欠損ラットモデルでTNFα抑制ペプチドを付加した人工コラーゲンは、移植神経幹細胞の細胞死抑制と神経突起の成長を促進しましたが、機能的な回復は不十分でした。



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